シュピーゲル写真家協会は、今から半世紀以上前の1953年(昭和28年)に創設。現在もなお関西圏を中心に独自の写真映像表現を目指し、優れた作家を輩出しつつ創作・発表活動を続けているプロとアマチュアからなる写真家集団です。

シュピーゲル写真家協会の起源について述べるには、少なくとも、第二次世界大戦の終焉後、数年が経過し、国内世情が未だ混沌とし、国民の日常生活も物心ともに苦労の多かった1949年(昭和24年)頃に遡らねばなりません。

その困難な時代にも、関西の写壇ではいち早く戦前の「全日本写真連盟」を復帰させようとする運動が盛んに進められ、その目標が着々と達成されつつありました。これは関西人の写真や美術を愛する情熱の歴史を今に伝えるエピソードとして記憶しておきたい事実です。

丹平写真倶楽部

その関西写壇には、戦前から名門として知られた「丹平写真倶楽部」があり、この丹平(たんぺい)も戦後まもなく活発な作品活動を開始していました。丹平の会員の中でも、新たな作品領域を開拓せんとする熱意が特に強かったのが棚橋紫水、木村勝正、河野徹、佐保山堯海、岩宮武二、堀内初太郎、和田生光(静香)、玉井瑞夫の8名でした。

この生粋会員であり有力なメンバー8名は、東京進出を志し「丹平8人展」と銘打った写真作品展を銀座・松島ギャラリー(当時の松島眼鏡店2階)で数年にわたって継続的に開催。

他方、丹平では戦後の会の活動方針を巡って種々の議論がなされておりました。中でも重要かつ緊急の課題は、戦前と同じく作家の育成を中心とした研究団体で行くか、初心者指導を中心とした会に生まれ変わるか、という非常に基本的かつ重要な方策についてでした。1952年(昭和27年)、この二者択一の議論は初心者指導団体でよいとの結論で決着したのです。

シュピーゲル写真家協会の誕生

この新たな道を進もうとする丹平を前にして、創作意欲が高く作品研究を願う8人展のメンバーは、丹平の掲げる目標が自分たちとは全く相容れないことを苦慮し、将来のためを思い遂に丹平写真倶楽部と袂を分かつことを決断し脱会。

翌年、この8名自らが創立会員※1となって、作品研究および作家の輩出を中心目標と掲げる新たな会を発足させ、ここに「シュピーゲル写真家協会」が誕生しました。未だ巷に敗戦ムードの残る1953年(昭和28年)2月のことでした。

会が冠する「シュピーゲル」の名は東大寺の管長上司 海雲師の命名によるもので「鏡」を意味するドイツ語の“Spiegel”に由来します。

「写真」とは森羅万象から人の内面までを写しだすべきものであり、言い換えれば、光や自他の像を映し出す「鏡」に他ならない、と云った発想に基づく命名であったかと推測されます。

※1 後に規約により、創立会員でもある上記の8名は永久会員とされ、会員名簿に恒久の名を刻まれることになった。


協会の創設にまつわる本解説は1973年発行の写真集「SPIEGEL 20」の巻頭文として、協会創設当時からの会長であった故・棚橋紫水による「回想20年 シュピーゲル前進の転機となれば」のメッセージ、並びに1982年発行の写真集「SPIEGEL 30」の巻頭文として棚橋紫水による「純粋に作品活動を続けたい」というメッセージを参考に編集